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2005年10月7日を表示

科挙

 科挙については、京都大学名誉教授 宮崎市定 著の「科挙」中央公論社 が有名です。

 中国の科挙は、現在の日本の受験地獄など比べものにならない過酷な試験制度でした。
科挙は隋の文帝によってはじめられました。隋より前の時代には、世襲の貴族が、家柄によって官僚になるという、貴族政治が行われていました。貴族の勢力を抑えるために、実力によって官僚を登用するために科挙は始められたのです。

 時代によって試験制度は変わって行きますが、基本的には三回の試験でした。合格率おおよそ3000倍の試験でした。諸外国では、政治は貴族階級の出身者が行っていたのに、身分に関係なく誰でも受験でき、合格すれば一躍高級官僚になれる画期的なものでした。ちょうどいまの日本の国家公務員上級試験いわゆる(キャリアー組)になれたのです。

 どれほど勉強したのかというと、まず数え年の5歳くらいから、字を教え始め、8歳頃から本格的に勉強します。一番大事なのは「四書」でその中の「論語」から始めました。15歳ころにはひと通りの古典教育を終了します。「論語」、「孟子」、「易経」、「書経」、「詩経」、「礼紀」、「左伝」のいわゆる四書、五経あわせて、全部で43万文字を全て暗記するのが建前でした。このほかに注釈、試験問題の回答の方法、歴史の勉強、文学の勉強、文学には、良い文章や、詩を作ったりする才能が必要とされました。人間業ではありません。信じられない量です。

 始めの試験は、国立の学校へ入る試験「童試」から始まります。「県試」、「府試」、「院試」の3つの試験を受けました。合格すると「秀才」と言う資格を得て、晴れて入学できました。学校で「科試」に合格すると、「挙子」と言う「郷試」の受験資格を得ることが出来ました。

 「郷試」が実際には本当の試験で、100倍の合格率でした。個室で三日二晩煮炊きしながら、試験を受けました。合格すると、「挙子」から「挙人」となり、終生「会試」の受験資格を得ると共に、ある種の官職につける資格も得ました。一番で合格した者は「解元」と呼ばれ大変な名誉でした。

 次が「会試」です。これが事実上の本試験でした。この試験も「郷試」と同様三日二晩の試験でした。受験者は1万数千人で、予備試験がありました。合格者は200~300人くらいでした。一番で合格した者は「会元」と呼ばれさらに名誉なことでした。

 最後の試験が殿試です。基本的には不合格は出ない事になっていました。天使自らが行う試験でした。これに合格すると「進士」となるのです。一番から三番までは「進士及第」と言う特別な称号をもらえました。一番は「状元」と呼ばれ、最大最高の栄誉とされました。「解元」、「会元」、「状元」全てを取ると言う意味から、マージャンの「大三元」と言う役が生まれました。役万です。親の役万は48000点、子の役万は32000点です。

 もっとも受験勉強には大変お金もかかり、合格者の多くは裕福な貴族とか、金持ちの子供でした。

 朝鮮半島の李氏朝鮮でも中国の科挙制度が導入されていましたが、中国では誰でも受験できる制度だったのに反して、貴族層である両班しか受験できない仕組みになっていました。



2005年10月7日(金)23:42 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書籍 (短歌、漢詩) | 管理


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