Cat Schroedinger の 部屋
 
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2005年10月4日を表示

陶芸のお便り(2)

  有田焼についてのお便りが来たので、焼き物辞典(平凡社)などで確認しお返事しました。

----- Original Message -----
有田焼
  有田の陶器市に行ったとき、有田焼は、古唐津と伊万里の両方の影響を受けていると聞きました。
実際、唐津も伊万里も有田も全盛期は短かったと、話してくれた方は言っておりました。

  私とお話してくれた有田の陶器店の方は、有田ではいい土が取れたから、始めは伊万里に運び、伊万里焼として生産していたが、そのうち有田でも生産を始め、唐津焼と伊万里焼の両方を作っていたけれど、独自性に欠け知名度争いで負けたようなものだと言っておりました。
  
  しかし、実の所、有名な古唐津の作品の多くは、伊万里から生まれているとも語っていました。そういえば、展示会でも斑唐津とか朝鮮唐津とか名札がついている物がありました。

  古唐津と言うと骨董品的なイメージがわき、手の届かない感じもしますが、シンプルで親しみやすくも感じます。叩き唐津は叩いて作ると言いますが、口が小さい物は作って叩いて口の方を作るのでしょうね。どうして叩くのでしょう?締まるから?

中里太郎右衛門の作品は見たことがあります。
キビ色の地に黒で力強い柄が入った作品のイメージが強いです。

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Re. 有田焼
 地元の方のご意見ですから、そういうこともあるのでしょう。

少し整理してみましょう! 一般の説です。調べなおしましたからかなり正確です。

 唐津焼は、佐賀県西部から長崎県一帯にかけて焼かれた陶器をさします。窯跡は唐津市、北波多村、伊万里市、有田町、平戸市、佐世保市、波佐見町など沢山のところで作られていました。唐津港から船積みされていたため、唐津物と言われていました。総称でした。桃山前期には窯があったようです。この頃茶陶に優れたものが多かったのです。江戸時代には日用雑器も多く作るようになりました。

 伊万里焼は有田で焼かれた磁器をさします。伊万里から出荷されたため、伊万里焼と言われていました。朝鮮から連れて来られた、李参平という陶工が、有田に磁器土を発見し、日本で始めて白磁を焼けるようになりました。登り窯も彼が持ち込んだのです。それまでは日本全国穴窯でした。

 明治になって、有田で焼かれたのだから、伊万里というのはおかしいといって、有田焼という名称が起こりました。いってみれば、有田の独立ブランドが出来たのです。

 これとは別に鍋島というのがあります。これは有田を領地にもつ、鍋島藩が、大名に贈り物として特別に作らせていたものです。藩窯といいます。中国、朝鮮では官窯といいまして、厳密に宮廷用に焼いていました。少しでも傷があると、すべて割ってしまいます。また普通の庶民が持つことは禁止されていました。欠片一つ持つことが出来なかったそうです。日本では鍋島藩窯がこれにあたります。日本ではここだけでした。個人的にはごてごてしてて好きではありませんが、超高額です。

 現代では陶器も珍重されますが、当時はなんと言っても磁器は羨望の的だったのです。どの国も陶器から磁器へと移行していきました。

 幸か不幸か、日本では茶道の影響で、美しい白磁だけでなく、陶器も滅びることなく大事にされてきました。作る方は、人気のある磁器に移行し、窯も登り窯となって、良い陶器は作られなくなりました。
 
 それでも茶人は桃山時代の陶器を大事にし、現代に受け継がれてきたのです。近代になって、たとえば、中里 無庵などが桃山の唐津を再現したように、各地で復興が起こりました。

 外国の人には陶器は解りにくく、磁器が好きなようです。もちろんマイセン、ウエッジウッド、セーブルなどなど綺麗系に人気があります。あるものは日本で下地を作っていたりしました。不思議と日本のヤングギャルでも、陶器の良さはある程度解る様です。日本の磁器の技術は中国と並び実は世界一です。残念ながら、なぜか外国の人気に敵いません。車や時計と一緒ですね!性能は世界一でも人気はなぜか二番なのです。



2005年10月4日(火)23:43 | トラックバック(0) | コメント(0) | 陶芸 | 管理


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