Cat Schroedinger の 部屋
 
                        雑談の部屋です。
 



2019年11月7日を表示

西安の城壁

 西安は漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都でした。唐代には首都として人口100万人の世界最大の都市に成長しました。

 唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とし、日本でも平城京や平安京は長安を模して作られました。日本では外敵が無く、朱雀門などは作られましたが城壁は作られませんでした。

 長安の城壁は 周囲13.7Km、高さ12m、旧都長安の都を守っており、現在ある城壁は唐の時代から明の時代に築かれました。東西南北4つの問があり、今回は西の門の安定門へ行きました。

 ぐるっと回るに13.7Kmでは徒歩ではとてもじゃないので、自転車の貸し出しがあります。



 城壁の上から見ると、城内の景色が一望です。メインの大通りは幅が100mもあります。

 当時の弓矢の到達距離は75mほどで、有効射程距離は50mでした。皇帝がパレードする時矢が届かない距離にしたのです。

 



 城壁の上の道幅も10mあり、当時は馬で巡回していました。


 門とは別に写真で見える櫓があります。高さがあり、まるで高速道路のようです。


 門の中でも西門はシルクロードの出発門でもあり、西からの商人の到着門でもありました。

 どれもこれも日本などとは桁違いの大きさです。遣隋使、遣唐使も私たちと同じように感銘を受け、日本に帰りこのような都を作りたくなったのでしょう。



 夕食の続きにナイトショーがありました。きらびやかですが、踊りの振りが日本人には同じように見えて今一つの評価でした。

 ホテルに帰ると寝不足であっという間に熟睡です。



2019年11月7日(木)16:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理

大雁塔

 史記の項羽本紀に、項羽が咸陽に入り、秦王子嬰を殺害し、秦の宮室は焼き払われ、3か月間にわたって火が消えなかったとあります。この話は最近疑問が持たれています。

 司馬遷は項羽のファンだったので、項羽を本紀に入れています。なので阿房宮の話は正確さを欠くのかもと思います。

 当時の長安の都は渭水に近い阿房宮や始皇帝陵より、南に造られました。現在の西安はほぼ長安の都の場所です。

 西安に戻り、一番の名所大雁塔(だいがんとう)に行きました。 652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔です。

 高さは7層64mで現在は、西安市の東南郊外にある大慈恩寺の境内に建っています。

 701年に建て替えられたそうです。最上層まで登ることが可能で、登りたい人は申し出るのですが、今回昨夜遅くホテルに到着し、兵馬俑の予約のため早起きし、みんな疲れていたので誰も登りませんでした。

 やっぱりこの旅行の、飛行機の便の悪さが一因です。

 塔はやや左に傾いています。これはカメラの所為ではなく、近年地下水を汲み上げしすぎたため地盤沈下の所為です。古都のイメージのある西安は、人口が1000万人もあり、雨が少ないので水不足になりがちなのが原因です。寺社仏閣以外に古都のイメージは希薄でした。

 習近平国家主席の出身地なので、今後さらに近代化しそうです。



 玄奘三蔵の銅像が建ち、背景に大雁塔が見えます。みんなが写真を撮る所で、混みあっていました。

 玄奘三蔵の旅の苦労はよく知られていることですが、とにかく大変な旅でした。インドでの5年学び16年後に長安に戻りました。

 玄奘は仏舎利150粒、仏像8体、経典520夾657部を唐に持ち帰り、サンスクリット語を漢字で書いてきたので、はじめは弘福寺、のちには大慈恩寺で経典の翻訳をしました。



2019年11月7日(木)12:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理

西安兵馬俑

 昨夜は夜中にホテル到着なのに、兵馬俑の予約の関係で朝早く出発しました。

 兵馬俑は古代中国秦の時代に死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったものです。

 一番初めに建てられた1号館に、よく知られている俑が並べられていました。土に埋めるようにするため、溝を作りその中に並べ、上に木材ヲ渡し敷物を天井にして土を掛けたそうです。そのため溝に沿って並べられていたそうです。

 大変な数ですが、これも始皇帝陵のほんの一部のようです。このように保たれたのは始皇帝は神のような存在で、祟りを恐れ墓荒らしが少なかったのが幸いしたのだそうです。



 これは司令部の兵馬俑で新しい館にあります。1号館の歩兵の服装に比べ位が高い装備が目立ちます。


 2号坑の東部で出土し、武器として弓を所持していた。跪射俑は左膝を曲げて立て、右膝を地につけた形状が特徴的でです。

 この跪射俑は多くの俑の中で、最も完全な形で発掘された俑の一つで有名な俑です。

 兵士一人一人の顔、背丈、服装も違い、実際の兵士をモデルに造りました。全て彩色されていましたが、時代変化と掘り出すとすぐに酸化して色あせたので、最近は色を保つように工夫しています。



 この辺りはザクロと柿が名産なので、売店でザクロのジュースを売っていました。一杯作るのに沢山のザクロの実を入れて潰して漉すだけです。何も他に入れないのに甘すぎるほどで、とても美味しいジュースです。

 みんなが美味しいというので20元の大きい方を買いました。



 一番新しい美術館のような建物に行きました。復元されたり再現された馬車などが展示されていて、当時の状態が解ります。

 規模に圧倒されましたが、発掘されてた兵馬俑は極一部で、始皇帝の陵に近づけばもっと精密で豪華なものが出るのではと期待されています。

 写真や映像で見ることは出来ますが、実際に見ると規模の大きさを感じます。凄いの一言に尽きます。

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2019年11月7日(木)09:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理


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