Cat Schroedinger の 部屋
 
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2016年6月3日を表示

盧舎那大仏の変遷

盧舎那大仏

 作り始めたときは知識不足で光背のことに気づかないで建築したのかもしれません。後に光背が必要と気づいて、大仏殿を嵩上げしてまでして光背を作っています。

743年
天平15年(743)10月15日、このような背景のもと、聖武天皇は「盧舎那大仏造顕の詔」を発せられます。これにより、先ず紫香楽(現在の滋賀県甲賀郡信楽町)において盧舎那大仏の造像事業が開始されることとなりました。

このようにして「盧舎那大仏」の造像がはじめられるのですが、紫香楽の山に火災が頻発したことや地震が続いたことなどにより、国都は紫香楽から再び平城京に遷され、これに伴い盧舎那仏造立の地も紫香楽から大和国金光明寺、即ち現在の東大寺の寺域に変更されることになりました。
745年
天平17年(745)には大仏さまの造像工事が始まり、
747年
天平19年(747)9月から天平勝宝元年(749)10月まで、3ヶ年8度の鋳継ぎを経て大仏さま本体の鋳造が完了、
751年
天平勝宝3年(751)には螺髪の鋳造並びに頭部への取り付けも終わり、天平19年(747)より平行して工事が進められていた大仏殿もこの年ほぼ形を整え、
752年
天平勝宝4年(752)4月には盛大な開眼供養会(かいげんくようえ)が行われました。この年は、わが国に仏教が伝来して200年目に当る年であったとされます。
757年
757年(天平勝宝9年)3月から河内画師次万呂や上村主牛養らの指導で、蓮弁上部中央に説法相の釈迦とそれを聴聞する二十二菩薩や楼閣および円光中の仏頭・菩薩頭を、その下に須弥山世界を表わす蓮華蔵世界が鏨(タガネ)を使って線刻で描かれ、
763年
更に、763年(天平宝字7年)から536体(現在は520体)の化仏を付けた光背の製作に着手し、出来上がったのは8年後で、開眼供養が終わってから19年後、奈良時代の末期、771年(宝亀2年)でした。

789年
大仏殿を中心とする東大寺の七堂伽藍の造営は、この後、延暦8年(789)の造東大寺司の廃止まで続けられ、ようやく一応の完成をみることができました。
855年
平安時代には、斉衡2年(855)、地震のために大仏さまの頭部が墜ち、真如法親王によって修復事業が進められ、貞観3年(861)に開眼供養が行われました。
1180年
平安時代末、源平抗争さなか、平重衡の軍勢が南都を攻め、この兵火の為に治承4年(1180)12月28日、東大寺も大仏殿をはじめ伽藍の大半を焼失してしまいました。

焼失した大仏殿を中心とする東大寺伽藍の復興造営は、俊乗房重源によって翌年から着手されるところとなります。
1185年
文治元年(1185)には後白河法皇を導師として大仏さまの開眼供養を挙行
1567年
永禄10年(1567)10月10日、三好松永の乱による兵火は大仏殿にも及び、二月堂・法華堂・南大門・転害門・正倉院・大鐘楼などは残ったものの、東大寺の大伽藍を再び灰燼に到らしめたのでした。

戦国時代、世相混沌として、伽藍の復興は困難を極め、仏頭を銅板で補っただけの大仏さまは「露座の大仏」と称されるありさまでした。
1692年
五代将軍綱吉公と桂昌院、また柳沢吉保(よしやす)らの援助も得られ、大仏さまの開眼供養を元禄5年(1692)に、さらに建築規模は約三分の二に縮小されたものの、再建大仏殿の落慶供養を宝永6年(1709)に行う事ができました。



2016年6月3日(金)00:34 | トラックバック(0) | コメント(0) | 今日の出来事 | 管理


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