「大阪あそ歩(あそぼ)」その3 |
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| 舎密局(せいみきょく)跡。舎密はオランダ語シェミー(科学の意)の当て字。 当時の大阪府知事 後藤象二郎は理化学教育の重要性に鑑み、明治2年(1869年)オランダ人ハラタマを招いて公立学問所を作りました。その後京都に移転し、京都大学になります。
そのハラタマの像です。
その横にかって大阪憲兵隊本部が有ったところが、現在の大阪府警察本部になっています。
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| NHKがある大阪歴史博物館に難波宮跡があります。孝徳天皇の前期難波宮と、聖武天皇による後期難波宮が有ったそうです。
事前に申し込めば地下の様子も見学できるそうです。
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| 歩兵八聯(れん)隊跡および歩兵37聯隊跡 (大阪医療センター) とても弱かったと言われていた八聯隊ですが、事実とは異なりそれなりの理由があったようです。
この大阪医療センターの地が大村益次郎終焉の地です。詳細は省きますが、軍の最高位だったため、左大腿部切断が必要になったとき、手術のための勅許を必要としました。東京都の調整に時間がかかり、手術が遅れたのが敗血症を悪化させました。
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| 昭和16年(1941年)大村益次郎終焉の地に「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」が建立されました。
巨大な石碑建立の発起人は、松下幸之助、野村徳七、伊藤忠兵衛、東条英機など88名の蒼々たるメンバでした。
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| 戦犯なので滅多に見ない名前がありました。
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2014年5月18日(日)17:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理
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