「大阪あそ歩(あそぼ)」その2 |
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| 昭和14年近衛文麿の書によって建てられた「義侠 天野屋利兵衛之碑」です。
仮名手本忠臣蔵では「天野屋利兵衛は男でござる」のセリフで有名ですが、赤穂事件とは無関係というのが定説です。そのためか裏の文字が、削られていました。
播州赤穂で見た限りでは、討ち入りの武器はそれぞれバラバラでした。火消し装束でしたが、揃いの衣装も着ていなかったようです。
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| 大阪西町奉行所跡です。文久3年(1863年)勝海舟と親交があった、大阪西町奉行松平大隅守勘太郎を坂本龍馬や、海軍塾の塾頭佐藤与之助や門下生が数回訪れていたそうです。
この奉行所跡が慶応4年(1868年)に大阪府庁が設立されました。
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| 大阪商工会議所に三体の立派な銅像があります。
「五代友厚」「土居通夫」「稲畑勝太郎」です。
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| 大阪では唯一の能楽堂です。聞けば「観世流」だそうです。大阪は商人の町の所為か、武士の能楽は盛んでは無かったようです。大阪では歌舞伎と文楽です。
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| これが大村益次郎「漏月庵」跡です。
1846年緒方洪庵の適塾に入学した頃は村田良庵と名乗っていました。大変優秀で、僅か2年で塾頭になりました。
始めは寮生活でしたが、初めて自分の家を持ったのがこの地でした。奇しくも医院になっていました。
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2014年5月18日(日)16:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理
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