Cat Schroedinger の 部屋
 
                        雑談の部屋です。
 



二本松城跡

 盛岡駅から新幹線に乗り仙台に向かい2泊します。盛岡ともお別れです。

 盛岡に5日間も滞在し色々な店で食事し、散歩しました。開運橋は、別名「二度泣き橋」と呼ばれ、盛岡駅へ向かう途中に再びこの橋を渡り、二度目は離れるのが辛くて泣くという気持に共感しました。

 県庁所在地ですが街がこぢんまりしていて、実に良い街でした。

 仙台駅からバスで福島県の「二本松城跡」別名霞ヶ城」に到着しました。旧奥州街道二面していて重要な城でした。城主も何度も変わっています。

 戊辰戦争でふるさとを守るために若い命を散らした、二本松少年隊を顕彰する群像。



 この城はもともと天守閣は無くこの「箕輪門」が有名です。
 特に石垣と松が見事です。石垣と累々たる城壁、城門が十万石大名の威容を示していました。

 戊辰戦争によって、灰燼(かいじん)と帰しましたが、再建の声が高まり、昭和57年(1982年)に再建されました。



 霞ヶ城の笠松です。庭は綺麗で風情がありました。


 もともとは丹羽藩主時代、霞ヶ城内の庭園にいくつかあった茶室の一つ「墨絵の茶屋」です。

 天保8年(1837年)山崩れにより墨絵の茶屋が倒壊し、これを阿武隈川河畔に移して再建し、藩主の釣り茶屋となっていたのを、後に現在地に移し「洗心亭」と名づけたものです。

 戊辰戦争でもこれだけは焼けなかった貴重な建物です。



 今回時間の関係で天守までは行かれませんでしたが、途中の展望台には行きました。安達太良連峰が見えるのですが生憎曇っていて何も見えませんでした。

 高村光太郎の愛妻智恵子の故郷のため「樹下の二人」の初めの部分の句碑もあります。仇等田山が見えなかったので、全文を

 高村光太郎 「樹下の二人」(詩集『智恵子抄』より)
樹下の二人
――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――


あれが阿多多羅山あたたらやま、
あの光るのが阿武隈川。

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹せんたんを魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののやうに捉とらへがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫さかぐら。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国きたぐにの木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

 二本松市歴史観光施設(愛称「にほんまつ城報館」)で色々な物を見学しました。



2022年8月6日(土)14:30 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理

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