青龍寺 |
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| 今日は午後の飛行機に乗るまで予定がありませんでしたが、添乗員さんの提案で、空海(弘法大使)が修行した「青龍寺」に行く事にしました。
実は青龍寺は廃墟となっていたのですが、空海の修行した寺なので、日本中の真言宗の寺からの寄付で空海記念碑、恵果・空海記念堂が再建されました。
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| 空海は当時無名でしたが、医薬の知識と中国語の能力を評価され遣唐使の一行に入れました。
第18次遣唐使は803年博多から出航しましたが、嵐で漂流し漂着したところで海賊の疑いを掛けられました。
この時遣唐大使の代筆をし、あまりの見事な達筆に疑いが晴れました。現在の中国では空海は宗教家より、能書家として名高いそうです。
密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになりました。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受けました。
当時長らく修行しているほかの弟子を差し置いての伝授に異論が出ましたが、問答などで他の修行僧を圧倒したそうです。
一説には中国人はサンスクリット語を学ぶ能力がなく、語学の達人である空海は僅か3カ月でマスターしたことも一因と考えられています。
その後 20年の留学予定を短縮し2年で留学の滞在費がなくなったことを理由に唐朝の許可を得て、その帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についた。
早すぎる帰国は朝廷から咎められ、しばらく謹慎となっています。
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| 御記帳を受ける売店には、住職が書いた掛け軸が沢山ありました。
葡萄(ぶどう)の美酒夜光(やこう)の杯(はい)、 飲まんと欲すれば 琵琶(びわ) 馬上に催す(もよおす) 酔うて沙場に臥すも 君笑ふ莫かれ(なかれ) 古来征戦(せいせん) 幾人か 回る(かえる) を見て「上」の字に横線が無いけどと言ったら、これでいいとのことでした。
漢字のことは中国の人に敵いません。
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| そのほかに王維の「元二の安西に使ひするを送る」 【原文】 渭 城 朝 雨 潤 軽 塵 客 舎 青 青 柳 色 新 勧 君 更 尽 一 杯 酒 西 出 陽 関 無 故 人
【訓読】 渭城の朝 軽塵を潤し 客舎青々柳色新たなり 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒 西の方陽関を出づれば 故人無からん
の軸がありました。添乗員さんに当時は長安から旅立つに西でなくて、渭水の畔まで行って宴会をするのが常だったと聞いているがその訳を聞きました。
何と敦煌に向かうに河西回廊を歩くのではなく、船で行ったからだそうです。てっきり江戸時代のお伊勢参りのように、品川の宿まで送りに行って、ドンチャン騒ぎし、遊郭でと思っていました。
王之渙(おうしかん)「涼州詞」
【原文】 黄河遠上白雲間 一片孤城万仭山 羗笛何須怨楊柳 春光不度玉門関
【訓読】 黄河〈こうが〉 遠〈とお〉く上〈のぼ〉る 白雲〈はくうん〉の間〈かん〉 一片〈いっぺん〉の孤城〈こじょう〉 万仭〈ばんじん〉の山〈やま〉 羌笛〈きょうてき〉何〈なん〉ぞ須〈もち〉ひん 楊柳〈ようりゅう〉を怨〈うら〉むを 春光〈しゅんこう〉度〈わた〉らず 玉門関〈ぎょくもんかん〉
【大意】 黄河の川上へのぼっていくと、雲の間に入っていくように思われる。 高い山々の中には一つのはなれ城がある。 異民族の笛が折楊柳の曲を奏でているが、彼らが楊柳への恨みを訴えても何になろう。 玉門関よりこちらには春の光がやってこないのだ。
などもありました。
話しているのを聞きつけ、店員の方からかなり強力に掛け軸を進められました。家に床の間が無いからと断りました。
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| 元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられました。
霊場巡りはここから始めるのが、本格的だそうです。全員無料の第0版札所の紙を頂きました。御朱印帳を持って来た方もありました。無い方は御朱印帳に貼ると良いそうです。
これで今回の旅行も終わりました。食事はほかの方は大丈夫でしたが、八角などが苦手な私は、部屋で焼きそば、カップラーメンなどを食べてました。
ザクロジュースはなかなか美味でした。
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2019年11月10日(日)11:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理
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