焼津 小泉八雲記念館 |
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| 小泉八雲と言えば「松江」ですが、実際に松江にいたのは1年足らずでした。
1902年3月19日 - 西大久保の家に初めて自宅を持つまで、ずっと借り屋住まいでした。松江の借り屋でも小さな庭について記載しています。極めて日本的な小さな庭に日本庭園の素晴らしさを認めています。
彼の異文化に対する寛容度と、理解の深さに驚きました。
1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日。
1891(明治24)年、松江の元士族の娘・小泉セツと結婚し、翌年には松江を去り、熊本の第五高等学校の教師となります。
1896年 - 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職します。
1897(明治30)年の8月、初めて焼津を訪れ、焼津の海が大いに気に入り、以後亡くなるまで6回もの夏を焼津で過ごすこととなります。
初め舞阪の海を訪れたのですが、海が遠浅で海水浴には適しているが水泳には適さないということで、探すうちに焼津の深くて荒い海が気に入った八雲は、海岸通りの魚商人・山口乙吉の家の2階を借り、以後、1899(明治32)年、1900(明治33)年、1901(明治34)年、1902(明治35)年、1904(明治37)年と、亡くなるまでほとんどの夏を焼津で過ごしました。
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| 焼津文化会館の横にあるのですが、あまりにも立派な建物で驚きました。
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| 「小泉八雲と明治のお雇い外国人」の企画展示が有りました。
明治政府は欧米先進国の技術、制度を導入するため沢山の外国人を雇いました。とてつもない高額で雇い、東京帝大の費用の三分の一が外国人教師の給料でした。
外国人教師はこの表に見られるように、日本の近代化に大変な影響を与えました。
やがて留学生が帰ってくると外国人教師は次第に留学帰りの教師に置き換わっていきました。
帝大で英文学を教えていた小泉八雲の後は、夏目漱石でした。当初夏目漱石は評判が悪く、小泉八雲退職反対運動が起きたほどです。
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2015年11月29日(日)22:46 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理
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