播州赤穂 |
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| 5月15日夕方播州赤穂に降り立ちました。 駅に続くホテルにチェックインし、シャワーを浴びて町出ました。駅からまっすぐ南に向かうと、ほどなく息継ぎ井戸がありました。
元禄14年(1701年)3月14日の浅野長矩の殿中刃傷の知らせを、未の刻(午後2時頃)、大学は書状を国家老・大石内蔵助にしたためて、早水 藤左衛門満尭(はやみ とうざえもんみつたか)と萱野三平重実(かやの さんぺいしげざね)を第1の急使として赤穂へ派遣しました。赤穂藩に報が伝わったのは3月19日卯の刻でした。 当時普通の旅人なら17日、飛脚で8日かかるところを早駕籠で4日と9時間で走破しています。これは江戸時代最高記録で、その後も破られていません。
この二人が赤穂に着いて、この井戸の水で一息次いで城内の大石内蔵助邸に入ったとされています。この井戸は自噴でなく、水道でした。赤穂は海が近く井戸が掘れません、そのため近くの千種川から取水し。備前焼の土管で城内くまなく給水したのでした。
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| そのまままっすぐ南へ下ると、赤穂城の大手門に至ります。夕方なので。隅櫓に夕日が少し当たってとても綺麗でした。映画で何度も見た赤穂城を目の当たりにし、感激しました。
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| 少し東に逸れると大石内蔵助邸が有ります。現存しているのは大石邸長屋門だけです。瓦の紋が、例の太鼓の文様「右回り二つ巴」になっています。その裏手が大石神社です。神社はもう閉まっていたので、町に引き返しました。
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| あいにく日曜日の夜なのでどの店も開いていなくて、「冑鮨」という寿司屋に入りました。鯛、カンパチ、イカを切って貰いお酒を少々飲んでいると、女将さんが話し好きで赤穂のことを色々話してくれました。口数の少ない御亭主が赤穂の名物の穴子を奨めてくれました。 他の客が頼んだ折を包む包装紙がとても綺麗で誉めると壁に原画がありました。堀部安兵衛武庸(ほりべやすひょうえたけつね)とその妻堀部ほりの別れの絵だそうです。このとき安兵衛32歳、ほり27歳でした。ついでにマッチも沢山作ったけど、マッチは人気がないので持って行くようにと6個も貰いました。
高田馬場の決闘において助太刀をしようとした中山安兵衛(のちの堀部武庸)は、たすきがないことに気づいて何か紐を捜そうとしたが、適当な紐がない。そこへ観衆の中からほりが出てきて、自分のしていたひじり綿のしごきを渡す。安兵衛はこれをたすきにして、村上兄弟と対決したという逸話がありますが。史実ではありません。でもこの助太刀で有名になり、ほりと結婚することになりました。
寿司屋を出て店を探しましたが、何処も開いていないのでホテルに帰りました。歩きすぎて足が痛くなりました。明日は大丈夫かな?
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2011年5月15日(日)23:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理
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