Cat Schroedinger の 部屋
 
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大工調べ

大工調べ

 おなじみの落語ですから、あらすじは簡単にします。

 与太郎が家賃を滞納していたので、大家が大工の命である大工道具を持って行ってしまいます。仕事が入ったからと、棟梁が尋ねてきて、貯めた家賃の1両2分と800文の内1両2分を渡し道具箱を取りに行かせるのですが、足りない800文に「たかが800」と言ったことから喧嘩になります。
 それではと言うことになって、代官所に訴え出ます。そこで大岡越前の名裁きとなります。

独自の解説
 越前忠相が江戸町奉行になったのは、享保2年(1717年)です。民事訴訟は「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」によって裁かれていましたが、御上も根気強く双方の話し合いを奨め、和解調停をさせていました。

 さて当時の家賃ですが、時代によって、また場所によって値段は大きく違いました。江戸後期には都心部は家賃が高くなりすぎて、いわゆるドーナツ現象が現れたりしています。

 しかし裏長屋の家賃は2朱(1両は4分、1分は4朱)くらいでした。2朱とは1分の4分の1ですから、500文(1両は4000文)になります。時代が下がっても、400文~1000文くらいでした。大工の手間賃は一日250~500文でしたから、2日分で払える金額でした。しかし中には10文とか日払いで払う人も居ました。

 それに家賃を何ヶ月も滞納する人はそれほど多くはありませんでした。また困っている人には待ってあげるという、人情深い世の中でした。

 落語の中で、大工が1両2分と800文の家賃を貯めるなんて、とても高い家賃の長屋に居たか、とても長く滞納していたことになります。
 棟梁がたかが800と言ったのも、棟梁なら1日1分以上でしたから、本当に1日で稼げる金額だったのです。

 時代が下がりますが、1845年の「柳庵雑筆」という考証随筆にちょうど借家に住む大工の家計が有ります。

 夫婦と子供一人の3人暮らしです。収入は銀建てですが、換算すると年収はおおよそ26両です。家賃は年2両、一月700文くらいでした。当時の家賃は400文~600文でしたから、ちょっと良い長屋に住んでいたことになります。雨の日も有るので毎日は働けないけれど、ほぼ1~2日分の日当でした。
 家賃の支出に占める割合は8%で、現代よりとても低いものでした。



2009年2月19日(木)00:03 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

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