Cat Schroedinger の 部屋
 
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大名屋敷の謎

「大名屋敷の謎」:安藤優一郎 著 出版社:集英社

集英社の書籍「大名屋敷の謎」試し読みより

まえがき
 最近、しきりに江戸ブームという言葉がメディアで躍っているが、そもそも江戸と言うと、どんなイメージが浮かぶのだろうか。
 江戸を知るメディアと言えば、何と言っても時代小説とテレビ・映画の時代劇だろう。そこでは、将軍の住む江戸城、女性たちの熾烈な戦いが繰り広げられた大奥、大岡越前や遠山の金さんが活躍する町奉行所の御白洲、江戸っ子の住む長屋、あるいは、幕府が唯一公認する遊廓・吉原が舞台として主に選ばれる。恐らく、これらの場所が現代人の頭に浮かぶ江戸の姿に違いない。

 しかし、時代劇の世界で描かれる光景は、面積で言うと、実は江戸のほんの一部にすぎない。百万都市江戸の大半は、諸大名と家来が住む広大な大名屋敷の敷地で占められていたからだ。

 例えば、現代の官庁街の霞が関は、安芸広島藩浅野家(四十二万石)、筑前福岡藩黒田家(四十七万石)などの屋敷跡地だった。ビジネス街の丸の内は、備前岡山藩池田家(三十一万石)、肥後熊本藩細川家(五十四万石)などの屋敷跡地。都市再開発の象徴たる六本木ヒルズも、本を正せば、長門萩(長州)藩毛利家(三十六万石)の分家・長門長府(豊浦)藩毛利家(五万石)の屋敷跡地なのである。

 官庁街やビジネス街、そして住宅街だけではない。日比谷公園をはじめ、後楽園、六義園、清澄庭園など東京の庭園も、その起源を辿っていくと、大名屋敷に行き着く。日比谷公園は肥前佐賀藩鍋島家(三十五万石)や毛利家の屋敷だった。江戸の遺産が公園の敷地として残った貴重な事例なのである。

 出入りした業者の視点から、江戸の大名屋敷を舞台にした当時の消費社会の新たな一面を描出する。尾張徳川家の御用聞きとなった戸塚村(新宿区)の豪農・中村甚右衛門家。1000人以上の藩士が生活する屋敷の食料調達と並んで巨利をもたらした下肥の汲(く)み取りビジネスの実態を、同家に伝わる文書で明かす。

感想
 この窒素の環流が江戸の町をとても綺麗にしていました。下肥を再び肥料として近隣の農家で使用したため、江戸の川は白魚が泳ぐほど綺麗でした。現代よりずーと進んだリサイクルが行われていたのです。

 実際の武家の暮らしぶりがよく解る本です。その様子が現代と殆ど変わらないのに、驚かされます。



2008年8月29日(金)22:35 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書籍 (短歌、漢詩) | 管理

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