都知事関連のの番組ばっかり |
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| 明けても暮れても「舛添要一東京都知事」の事ばかり。もう飽き飽きしました。
本人は罪の意識がないようで、辞める気は更々無い様です。確かに罪についてはいろんな解釈もあるし、微妙な事もあるでしょう。けれどもこれほど評価を落としてこれからやっていけると思っているのが不思議です。
犯罪でなくても知事として殆どの人が評価しなくなったのだから、潔く辞めるべきなのは当然のことです。
もう無理だと誰か忠告しないのでしょうか、知事には友だちは居ないような気がします。
小泉総理の好きな格言だそうですが、孔子の言葉で、民信無くば立たず (タミシンナクバタタズ)
政治への信頼が無ければリーダーたり得ないと言う意味に解釈されています。
TVからは面白そうに次から次へとスキャンダルが出てきますが、何より知事はもう誰にも信頼されていないことが問題です。不支持率は歴代最高になっています。
それにしても舛添要一知事の、あれだけ言われても平然としていられる精神力は凡人ではありません。流石と感心するほどです。
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2016年6月9日(木)23:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | 今日の出来事 | 管理
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旅の心得 |
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| ホテルをネットで予約するとメールが来ます。メールを印刷してチェックインのとき提出くださいと有るけれど、今までトラブルはありません。
けれどももしトラブルがあると部屋無しになるので、印刷していましたが、最近はメールの文章をPDFにしてGoogle ドライブのドキュメントに保存もしています。スマホとリンクしているのでとても便利です。
電車やバスの時刻表もGoogle ドライブのドキュメントに保存しておけば、旅行中にスマホから素早く調べることが出来て便利です。
観光施設の時間も調べた物はGoogle ドライブに保存しています。リンクアドレスも保存しておきます。
電車に関してはYahooの乗り換え案内を使っています。大体これで旅行は事足ります。
以前山口県の萩に行ったときですが、厚狭から長門方面に向かう「美祢線」は1時間に一本です。
所が長門から萩への電車はJR山陰本線ですが、なんと9時8分を逃すと14時36分まで有りません。おおよそ5時間後になります。あまりにも少なくてあっけにとられました。
乗り遅れないようにとても緊張しました。 . 長門から萩への時刻表 7時 2分 53分 9時 8分 14時 36分 16時 19分 17時 36分 19時 23分 21時 20分
運行ダイヤを組むのが簡単!
因みに山手線は午前6時台は5~7分間隔、7時台~9時台は3分間隔です。お昼頃は4~5分間隔です。山手線にも運行ダイヤはあります。以前ちょっと見たとき江戸小紋の斜め柄のようでした。(笑)
都会と地方の格差を感じます。今のところ鳥取県出身の石破茂地方創生・国家戦略特区担当大臣でもどうにもならないようです。
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2016年6月8日(水)20:10 | トラックバック(0) | コメント(0) | 仕事の話 | 管理
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「ムーミンのインテリアトレー4枚セット」 |
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| 「InRed」7月号の付録は「ムーミンのインテリアトレー4枚セット」でした。
素晴らしいセンス!
とても見事な配色に感激しました。
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| 特にこのトレーの色の使い方は見事です。
ムーミンはカバの子供ではありません。フィンランドではムーミントロールで、妖精です。
意外に知られていないことですが、スナフキンとミイは異父兄弟です。さらにミイの方がお姉さんです。
漫画でもいろんな歴史があります。よく知られていることですが、ドラえもんは初めはドラミちゃんと同じように黄色で耳もありました。
ある事件をきっかけに耳が無くなり、青色になりました。ある事件とは?
鉄腕アトムはお茶水博士でなくて、天馬博士が交通事故で亡くなった「飛雄」の代わりに作り「トビオ」と呼ばれていました。
天馬博士は変わり者で、トビオをサーカスに売ってしまいそこで「アトム」と名付けられました。お茶の水博士はアトムの教育者で、制作者ではありません。
鉄人28号は太平洋戦争末期に陸軍が作った秘密兵器でした。敷島博士が開発者で、金田少年のお父さんの金田博士が完成させました。
「紫電改のタカ」はとても良い作品とおもっていますが、作者ののちばてつやはこの作品は失敗作だと思っていました。 確かに最後の悲惨な終わり方は少年漫画にはふさわしくなかったのかもしれません。
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2016年6月7日(火)20:28 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理
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冷やし中華 |
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| 冷やし中華が大好きです。出来れば冬でも冷やし中華が食べたい派です。冷やし中華を今年初めて頂きました。
季節物なので夏にならないと食べられません。チェーン店に依ってはなかなか始めない所や、8月までの所も有ります。
衣替えと同様に、冷やし中華は6月から9月一杯と定めて欲しいと切に願っています。
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| ついでにイチゴフラッペも食べました。冷たい物を連続的に食べてすっかり身体が冷えました。
漢方的にはあまり冷たい物を摂取するのは身体に良くないそうです。(笑)
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2016年6月6日(月)23:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理
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田植えも終わり |
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| 朝から梅雨のような天気でしたが、午後からは晴れ渡りコーヒーを飲みに少し遠出をしました。
ドライブの途中、雨上がりのの田んぼが青々として綺麗でした。
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2016年6月5日(日)17:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理
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35mmフルサイズカメラ |
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| 昔はカメラのフィルムは様々なサイズがありました。ライカが映画に使う35mmのフィルム(縦3.6 cm×横2.4 cm)を切って使い始めこれが世界の標準になりました。
その後APS(アドバンストフォトシステム幅が23mm×高さが15mm)サイズのフィルムカメラも普及しました。
デジタルカメラになってからもこのサイズが引き継がれ、撮像素子の大きい方から35mmフルサイズ(36mm×24mm)、APS-Cサイズ(23.6mm×15.8mm)、フォーサイズ(17.3mm×6.6mm)、 1型(13.2mm×6,6mm)、1/2.3型(5.9mm×4.4mm)、1/3型(4.3mm×3.6mm)となっています。
35mmフルサイズはプロやハイアマチュア用です。普通の一眼レフ、ミラーレスはAPS-Cサイズで、35㎜フルサイズの2/3の大きさです。フォーサイズは1/2の大きさです。 サイズでは1/2ですが面積では1/4になるのでとても小さいサイズとなります。
ごく普通のコンパクトカメラは1/2.3型で、スマホのカメラが1/3型です。さほどサイズに違いがなく、スマホの技術が上がってきたので、コンパクトカメラの必要性がなくなってきました。
ブログ、SNS、メールに使う程度ならばスマホのカメラで事足ります。このブログに載せている写真も、APS-Cサイズで撮った写真はサイズが大きすぎるので、リサイズして載せています。
35mmフルサイズ(36mm×24mm)とスマホの1/3型(4.3mm×3.6mm)を比べると、7~8倍のサイズです。面積では50倍となります。デジタル技術をどんなに駆使しても撮像素子の大きさには適いません。
写真の世界には一種のヒエラルキーがあって、35mmフルサイズを持つ方の前ではAPS-Cサイズの持ち主は一歩後方に控えるのが常識でした。(笑)写真は腕もありますが、かなりカメラの性能が左右する世界です。年金を貰いすぎていると思われる老人が35mmフルサイズを首から提げていると,、日本の年金制度の矛盾を感じます。
今までAPS-Cサイズで写真を撮っていたのですが、以前は30~50万円もした35mmフルサイズがかなり安くなり欲しいな~~と思うようになりました。
所が35mmフルサイズは当然大きく重くなります。レンズも大きく重くなり、さらにとても高額になります。APS-Cサイズ用のレンズは3万円くらいから高級な物でも10万円くらいですが、35mmフルサイズのレンズは販売量も少なく、性能を発揮できるレンズとなると10万~20万円となります。
車で移動なら大きくて重くても持って行かれますが、三脚も必要で普通の旅行では大変です。
カメラ防湿庫の置物になる可能性が高く、本当に必要なのか悩んでいます。もう何ヶ月も悩んでいるのです。(笑)
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2016年6月4日(土)00:05 | トラックバック(0) | コメント(0) | 気紛れ写真 | 管理
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盧舎那大仏の変遷 |
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| 盧舎那大仏
作り始めたときは知識不足で光背のことに気づかないで建築したのかもしれません。後に光背が必要と気づいて、大仏殿を嵩上げしてまでして光背を作っています。
743年 天平15年(743)10月15日、このような背景のもと、聖武天皇は「盧舎那大仏造顕の詔」を発せられます。これにより、先ず紫香楽(現在の滋賀県甲賀郡信楽町)において盧舎那大仏の造像事業が開始されることとなりました。
このようにして「盧舎那大仏」の造像がはじめられるのですが、紫香楽の山に火災が頻発したことや地震が続いたことなどにより、国都は紫香楽から再び平城京に遷され、これに伴い盧舎那仏造立の地も紫香楽から大和国金光明寺、即ち現在の東大寺の寺域に変更されることになりました。 745年 天平17年(745)には大仏さまの造像工事が始まり、 747年 天平19年(747)9月から天平勝宝元年(749)10月まで、3ヶ年8度の鋳継ぎを経て大仏さま本体の鋳造が完了、 751年 天平勝宝3年(751)には螺髪の鋳造並びに頭部への取り付けも終わり、天平19年(747)より平行して工事が進められていた大仏殿もこの年ほぼ形を整え、 752年 天平勝宝4年(752)4月には盛大な開眼供養会(かいげんくようえ)が行われました。この年は、わが国に仏教が伝来して200年目に当る年であったとされます。 757年 757年(天平勝宝9年)3月から河内画師次万呂や上村主牛養らの指導で、蓮弁上部中央に説法相の釈迦とそれを聴聞する二十二菩薩や楼閣および円光中の仏頭・菩薩頭を、その下に須弥山世界を表わす蓮華蔵世界が鏨(タガネ)を使って線刻で描かれ、 763年 更に、763年(天平宝字7年)から536体(現在は520体)の化仏を付けた光背の製作に着手し、出来上がったのは8年後で、開眼供養が終わってから19年後、奈良時代の末期、771年(宝亀2年)でした。
789年 大仏殿を中心とする東大寺の七堂伽藍の造営は、この後、延暦8年(789)の造東大寺司の廃止まで続けられ、ようやく一応の完成をみることができました。 855年 平安時代には、斉衡2年(855)、地震のために大仏さまの頭部が墜ち、真如法親王によって修復事業が進められ、貞観3年(861)に開眼供養が行われました。 1180年 平安時代末、源平抗争さなか、平重衡の軍勢が南都を攻め、この兵火の為に治承4年(1180)12月28日、東大寺も大仏殿をはじめ伽藍の大半を焼失してしまいました。
焼失した大仏殿を中心とする東大寺伽藍の復興造営は、俊乗房重源によって翌年から着手されるところとなります。 1185年 文治元年(1185)には後白河法皇を導師として大仏さまの開眼供養を挙行 1567年 永禄10年(1567)10月10日、三好松永の乱による兵火は大仏殿にも及び、二月堂・法華堂・南大門・転害門・正倉院・大鐘楼などは残ったものの、東大寺の大伽藍を再び灰燼に到らしめたのでした。
戦国時代、世相混沌として、伽藍の復興は困難を極め、仏頭を銅板で補っただけの大仏さまは「露座の大仏」と称されるありさまでした。 1692年 五代将軍綱吉公と桂昌院、また柳沢吉保(よしやす)らの援助も得られ、大仏さまの開眼供養を元禄5年(1692)に、さらに建築規模は約三分の二に縮小されたものの、再建大仏殿の落慶供養を宝永6年(1709)に行う事ができました。
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2016年6月3日(金)00:34 | トラックバック(0) | コメント(0) | 今日の出来事 | 管理
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Gear VR |
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| 城の本を見ている内にふと思いついたのですが、Gear VR等で昔の城の姿を再現するようになるのもそれほど遠くない気がします。
古城も在りし日の姿をVRで再現できれば、古めかしい当時の絵図面を見て想像するより楽しめそうです。
既に江戸時代の日本橋周辺のVRを体験するツアーがありました。日程の都合で行かれなかったけれど、日本橋に立って江戸時代の風景を体験できるのは素晴らしいと思っていました。
しかし実際にVRを作るとなると、時代考証、資料の有無などまじめに作るのは大変だと思います。松江市は松江城の門の資料を、賞金を掛けて探しています。
ローマのコロッセオも当時の姿が見られれば、ローマ皇帝になった気分に成れそうです。
以前 NHK が開眼当時の奈良の大仏をCGで再現した番組がありました。ガンダーラの影響を受けている大仏で、現代の大仏とは全く違っていていました。
これを観て永年の疑問が解けました。それにしてもCGの威力はもの凄く、実際にそのとおりだったのかは解りませんが、説得力がありすぎます。批判の余地がありません。
ただ映像では光背が見られませんでした。特にふれられていませんでしたが、実際にはどうだったのでしょうか?
NHKに質問出しました。
さすが NHK すぐに返事が来ました。
内容も資料に基づいた確かな物でした。
お返事内容
NHK大阪放送局 お問い合わせについて【東大寺】
日頃からNHKの番組を視聴していただきありがとうございます。
ご質問について担当部署に問い合わせたところ 以下のような説明が届きましたのでお伝えいたします。
大仏殿の構造は年代によって変化しています。771年には大仏に木造の光背が作られ、実忠和尚によって天井がかさ上げされました。大仏殿の中には軒の垂下を避けて副柱が建てられました。
今回復元した大仏殿の建築構造は、757(天平宝字1)年、聖武天皇の1周忌が行われ大仏と大仏殿が完成したときの姿を復元することを目指しています。 今回CG復元された大仏殿は、厳密には757年から771年の間、14年間しか存在しなかった形態となります。
番組を注意深くご覧いただきましてありがとうございました。
今後ともNHKをよろしくお願いいたします。
NHK大阪放送局
詳細は以前のブログに
http://catschroedinger.btblog.jp/cm/kulSc08Qm457D7440/1/
http://catschroedinger.btblog.jp/cm/kulSc08ll4580071A/1/
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2016年6月2日(木)00:54 | トラックバック(0) | コメント(0) | 今日の出来事 | 管理
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「ウォーカームック 姫路城 Walker」 |
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| 先日訪れた姫路城ですが、全体の構造がどうなっているのか解らないところが一杯でした。そもそもお城は防御を目的に造られているので、歩いていると方向感が失いやすい作りとなっています。
そこで簡単な本を探しました。色々検討して新しくなった姫路城を徹底紹介したムック「姫路城ウォーカー」がをゲットしました。 実際に歩くルートに沿って一つ一つの見どころを解説しているので、その魅力を漏れなくチェックできます。
この本を見て初めてお城の全体像や、沢山ある門の場所を確かめることが出来ました。訪問前に見ておいた方が良いに決まっています。バタリ (o_ _)o ~
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| 「菱の門」は一番立派な初めての門です。
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| 「いの門」「ろの門」を通り「はの門」の手前の階段で天守が見える有名なところです。
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| 「はの門」を通ると小さな「にの門」となります。鉄板張りの門です。
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| 「ほの門」を過ぎると「水の門」が一門から六門迄あります。
この写真は「水の三門」です。
どの門も小さくて防御のための門となっています。 「水の六門」を通り抜けるとやっと天守にたどり着けました。
このほかに「ほの門」「への門」「との一門」「との二門」備前丸の「備前門」「りの門」「ぬの門」「るの門」など沢山の門があります。
今まで訪れた城の多くは、かっては有った門はなくなり、石垣だけが残っています。何もないグランドにぽつんと天守だけが有るのは可哀想です。本当の城は大きくて高い天守の権威付けと、強固な守りを目的とした多くの櫓、塀、門から成っていました。
姫路城は多くの門がそのまま残っており、本当の意味で当時の城と言えます。
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2016年6月1日(水)00:38 | トラックバック(0) | コメント(0) | 書籍 (短歌、漢詩) | 管理
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