Cat Schroedinger の 部屋
 
                        雑談の部屋です。
 



落語
~説明~
落語が大好き。

落語会のことなど

 今日は寿司屋に寄りました。先日の落語会の話で盛り上がりました。

 「井戸の茶碗」は良い出来でしたが、時間の関係からか、話の中身が少し端折ってあったので、残念だという意見もありました。

 前回の落語会の第一席が、手抜きのような話だったので、不評でした。

 耳の肥えた人が多く、噺家さんも大変です。(笑)



2007年5月28日(月)23:37 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

聴く文化

 最近は何でも映像化されています。映像の説得力は絶大です。
その所為か、本を読む人が少なくなっています。漫画や写真の多い雑誌はそれほどでもないのですが、字ばっかりの本は人気がありません。

活字を読んで、想像できるイメージは個人個人でずいぶん違うと思います。確かに正確に伝達しているとは言えないかも知れません。

 落語などは、何の知識が無くとも聴いて面白いところは沢山あるのでしょう。けれど話を聞いて想像できる世界は、どうなのでしょうね~。時代劇の映画を何本も観たことがあるだけでも、違うのでしょう。最近のドラマの時代劇は、とてもひどい作りで、せめて台詞くらいは、武士、農民、職人、商人の区別くらいはして欲しいと思っています。

 立派な武士が、町人のような口調で話すのには驚きより、害になると思っています。作家や、脚本家の責任です。



2007年5月27日(日)23:47 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

落語会

 今日は落語会でした。

 演目は「ちりとてちん」と「井戸の茶碗」でした。

 「ちりとてちん」は上方の落語で、江戸風には「酢豆腐」で知られています。

 どちらも嫌な相手に、腐った豆腐を食べさせると言う話です。豆腐はタンパク質ですから、もし本当なら、命に関わることもある悪戯で、個人的にはあまり好きな話ではありません。

 「酢豆腐」の話の方はキザな若旦那に食べさせる話で、食べさせる方は金の無い、しがない町内の若者なので、まだ余裕があるのですが、「ちりとてちん」の話の方は、食べさせられる人物がとても嫌みな人となっていて、更に食べさせる人も、大店の旦那で金持ちの悪戯なのが、残酷で好きになれない話です。

 江戸には向いていなかった話でしょう。江戸では一番嫌われたのは、野暮と、キザでした。ですからキザな若旦那を犠牲者に仕立てたのでしょう。

 「井戸の茶碗」は良い話で、大好きな話の一つです。
昔、あるところに真面目な武士がおりまして、くず屋から買った仏像を磨いていると、中から50両もの小判が出てきたのですが、自分は、仏像を買ったのであって、小判を買った訳ではないから、小判は持ち主に返すと言い出します。
 
 ところが、仏像の元の浪人している持ち主も、なかなかの堅物で、いったん売ってしまったのだから、そんなお金は受け取れないとの一点張り。
 
 とりあえず、大家の仲裁で、くず屋が10両、元の持ち主が古い茶碗を渡して、その代金としてお互い半分の20両を受け取ることで収まります。
 
 ところが、ただの古い茶碗だと思ったところ、これが名器「井戸の茶碗」だったから、さぁ大変。お殿様が300両でお買い上げになりました。ふたたび、返す、返さないでもめます。
 
 オチは、この真面目な武士が、浪人の娘を嫁にもらうことになって、くず屋から「今は貧乏してくすぶっておりますが、磨けばきっと美人になりますよ。」と言われたのに対して、
 
 「磨くのはよそう。また小判が出るといけない」



2007年5月22日(火)23:39 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

「大安売り」と「宿屋の仇討ち」

今日は落語会でした。
 演目は「大安売り」と「宿屋の仇討ち」でした。噺家さんも二人で、華やかでした。

 「大安売り」の方は、相撲取りが負け方をいろいろ言い訳しながら全敗する話です。
極たわいない話です。

 「宿屋の仇討ち」は以前にも演じられ、そのあらすじもここに書きました。
 旅のお侍が、宿屋にやってきました。侍は、疲れた体を休めたいので、静かに寝れる部屋が欲しいと言います。宿屋の者は、奥の部屋に侍を通しますが、悪いことに隣の部屋には、江戸からの3人連れが泊まっています。

 江戸っ子が3人も揃っているわけですから、うるさいのうるさくないの、ドンチャン騒ぎをするわ、相撲を取るわと大騒ぎでございます。夜になったらなったで、自分達の女遊びの話で大いに盛りあがります。その中の1人、源兵衛さんが、

 「こう見えても、俺っちは、その昔、川越の方で、石坂って言うお武家の奥さんといい仲になっていたんだが、こういうことはそのうち亭主にバレルと言うもの。相手は武士だろぅ。見つかった、はいすみませんじゃあ、すまない。手打ちにしてくれるなんて言い出したもんだから、こっちも黙って斬られるわけにいかない。相手の刀を奪ってブスリ。あれからもう5年も経つのか。いまでこそ、俺もおとなしくなったけど、昔はそれなりに悪だったのよ」

 なんて、たわいない話で盛りあがっております。

 さて、これを隣で聞いていたお侍が。店のものを呼んで言うには、拙者は川越藩の家中の者で石坂と申す。先年討たれた弟の敵を討つため諸国を歩いていたが、ついに仇を見つけた。ここで斬りこんでも構わないのだが、それでは当家に迷惑をかける。ついては、明朝まで逃げないように縄で縛っておいて欲しい。もし万が一、彼らが一人でも逃げたら、当家は皆殺しにするから、さよう心得よ。

 さぁ大変。宿屋の者は自分達が斬られたらたまらないと、3人を縛り上げます。

 先ほどまで威勢の良かった源兵衛さんは、真っ青になって、さっきの話は全くの口から出まかせ、まさか本当にそんなことがあるなんて思いもしなかった。だいいち、自分はケンカはからっきしで……なんて、半べそかきます。

 翌朝。店の者がどうなることかと恐る恐る、お侍を起こしに行きます。お侍は、さっぱりした顔で店の者に礼を言い、さっさと宿を出ようとします。店の者が、昨夜の源兵衛はいかがいたしましょうと尋ねると、お侍は、自分には弟などいないと言います。それじゃあ、昨夜の話は……と店の者が聞くと、

「あれぐらい申さんと、拙者が寝かせてもらえんからな」

感想
 「大安売り」の方は話も短く、相撲の話は最近ではそれほど受けないので、あまり演じられません。今夜もあまり受けませんでした。パターンも同じで、もう一工夫ほしいと感じがしました。

 前の話が軽かったせいか、「宿屋の仇討ち」はとても受けていました。侍、宿の若い衆、江戸っ子三人、それぞれ使い分けも良かったのですが、江戸っ子三人のそれぞれの個性がもう少し出ても良いかと思いました。

 何より今日は会場が入り口近くで、寒かった。後で席亭に聞いたら、誰かが暑いと言って暖房を消したのだそうです。寒くては話に集中できません。



2007年2月20日(火)23:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

落語の中の言葉

「抜け雀」の中で、古今亭志ん朝はついたてに描いた鳥に対して「この鳥は、落ちて死ぬな」と言います。志ん生は「この鳥は、落ちるな」と言います。最近は「落ちる」と言う言葉を使いません。「落鳥」とか、「鳥が落ちる」とは鳥が死ぬことです。通じないといけないので、「落ちて」で既に死んでいるのですが、「死ぬな」と言っているのです。

 辞書によれば、「落ちる」とは、けもの・鳥・魚などが死ぬ。事と有りますが、鳥以外の使用は知りませんでした。

 落語家さんと話したとき、最近は言葉が通じないので、違う言葉を使う事も出来るけれど、雰囲気が違ったり、肝心のおちの時に話が合わなくなったりするので、とても気をつけて昔の話を作り替えたりしているそうです。

 そういえば船を舫(もや)う、と言う言葉も通じないそうです。「船徳」で船頭の徳さんが一生懸命船を漕ぎ出そうとしますが、一向に船は動きません。すると客が
「船頭さん~船が舫ってあるよ!」
「へ?、ゲッ! 舫やってあると船は出ないことになっております。」 

と以前はやっていましたが、最近は
「船頭さん~船が舫ってあるよ!」
 「へ?、ゲッ! つないであると船は出ないことになっております。」
と上手く言い直しています。繰り返しで言い換えることによって、船に乗り慣れた客と、素人の船頭の対比まで出して言います。

 「居残り左平次」という話のおちで、無銭飲食した左平次を厄介払いしようとする主人に対して、左平次は実はお尋ね者だとすごみ、路銀から、着物から、履き物までせしめ、堂々と表から出ていきます。
 主人が「人をおこわにかけやがって!」と怒ると、
 若い衆が「旦那の頭がごま塩ですから」
と言うのが本来のおちです。
「おこわにかける」とは一杯くわす。美人局にかけると言う意味ですが、今では殆ど使われません。これではせっかくの落語のおちも解りません。

立川談志が始めたそうですが、
 若い衆が「あんな奴、裏から帰したらどうなんです?」と言うと
 旦那が「あんな奴に裏を返されたら、後が怖い」と言うおちになっています。
最近の落語ではみんなこれになっています。とても良いいおちだと感心しました。

「裏を返す」??
最近ではこれも通じないかも知れませんね?
もともとは、遊郭用語で、客が初めて遊女と遊ぶのが、「初会」吉原の一流どころの太夫ともなると、「初会」で色事などは無いのが普通でした。二度目が「裏を返す」と言いました。三回目からは「なじみ」と言いました。
現代でも飲み屋など、一度行って気に入ると、次に行ったとき「裏を返しに来たよ」などと使います。

 こう言っている私も、着物の柄や、生地の描写は解らないことがいっぱいあります。時々は調べるのですが、物は分かっても、当時どんな人達が着ていたのかとか、立派な武士なのか、身代の良い商人か、粋な職人かなど想像するくらいがやっとです。

 現代なら、
 渋い青色の英國屋で仕立てたスーツに、のりのきいた白いワイシャツ、同色のエルメスのネクタイをちょっと緩めに締めて、腕には飾り気のないピアジェの時計、少し使い込んだタニザワのダレスバック、靴はと見れば、フェロガモのウイングチップ・・・

 ちょっと様子を変えると、
 大きな縦縞のベルサーチのスーツ、シルクの光を放つ紫色のシャツに、真っ赤なネクタイ、肩から真っ白な長い襟巻きを結ばないでだらりとさげ、腕にはダイヤがちりばめたローレックス、反対の腕には金のブレスレット、太い指に大きな金のリング、エナメルの靴には曇り一つ無い。夜だというのに濃い色のサングラスをかけて・・・描写だけでもおおよそ見当が付きます。(笑)



2007年1月12日(金)23:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

抜け雀 その2

感想
 おちは、「駕籠舁(かごか)き」と、「籠(とりかご)を描く」のしゃれになっています。現代では駕籠という物が有りません。江戸時代いわゆる流しの駕籠屋は、今のタクシーとは比べものにならない、料金も曖昧で、旅人のやっかいな物の一つでした。街道の宿(しゅく)の流しの駕籠舁(かごか)きや馬牽きなど冬でも褌一つで、そりゃ~柄が悪かったそうです。

 この話で好きなのは、宿の主人がお人好しで、困った旅人にぶつぶつ言いながらも、役人に突き出すでもなく、口約束で無賃宿泊させてしまうところ。更にぼろは着ていても、気品がある絵描きを演じるところ。柄悪く演じたのでは、この話は台無しです。単に脅しただけになってしまいます。

 その後の雀の描写、更に絵描きの父親である落ち着きと気品、宿の主人の女房の口うるさい様子、どれも見事に演じて言います。

 武士の品の良さは、お兄さんの「金原亭馬生(十代目)」ゆずり、宿の主人のとぼけっぷりは、親父の「古今亭志ん生」ゆずりで、じつに見事な出来でした。

 まくらのタクシーから始まって、駕籠舁(かごか)きの悪さを説明するのは親切で良いのですが、笑いが無く、話も長く、説明ぽっくてまどろっこしい感じがするのは、今の時代駕籠舁(かごか)きを知っている人は殆どいないから、仕方ないことかなと・・・



2007年1月11日(木)00:24 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

抜け雀

 「古今亭志ん朝」の抜け雀を聴きました。とても好きな話です。親父さんの「古今亭志ん生」でも聴いたことがありますし、お兄さんの「金原亭馬生(十代目)」でも聴いたことがあります。

あらすじ
 まくらに、ごまの蠅とか、雲助とか、駕籠舁(かごか)きなど、旅人に悪さをする良くない職業であったことを、それとなく話します。

 何処の旅籠でも声を掛けない、身なりの悪い武士につい声を掛けてしまって、安旅籠に泊めることになってしまいます。入ってきた男。見た目にも一文無し風なので、店の者としてもハラハラしていたのですが、案の定、5日たち、6日たちしても、男はいっこうに支払う気配がありません。7日たってたまりかねた店の主人が、そろそろ一度精算を……と声をかけると、男はケロッとした顔をして、「ない」と言います。

 「ない」と言われて、「はいそうですか」と答えていたのでは、店はやっていけません。主人も人が良くて、何か仕事でもしろというと、絵描きだから絵を描いてやると言います。

 先だって一文無しを泊めてしまった職人が、作った「ついたて」に、いやがる主人におかまいなしで、男がふすまに見事な雀を描きます。それはまるで生きているかのようで、今にもふすまから抜け出してきそうなほど、生き生きとしています。

 描き終わった男は、
「すまぬが、今は一文無し。この絵を借金の形に置いてゆく。焼失はいたいかたないが、この絵を欲しいという者が現れても、決して売ってはならぬぞ。」
と主人に言います。

 店の主人も、お人好しで、男の描いた雀の見事さに感服し、なにも言わずに男を送り出しました。

 明くる朝、家の中で雀のさえずる音がする。木戸を開けると、男の描いた雀がふすまから抜け出し、表へ飛んでいってチーチーとさえずり、又戻ってくる。噂が広まり、その雀見たさで訪れる客が現れ、旅籠はたいそう繁盛します。雀の評判は全国に伝わり、旅籠を訪れる客が後を絶たず、店はいつしか「雀のお宿」と呼ばれるまでになりました。

 とうとう城主の大久保加賀守の耳にも入り、千両で購入いたすという話まで持ち上がります。ところが売ってはいけないと言われているため、売ることが出来ません。
 
 しばらくして、白髪の老人が旅籠を訪れ、ふすまの雀を見るなり、「この絵は素人に毛の生えたような物だ。」とさんざんです。このままだと雀は落鳥すると、主人に言います。どういうことかと主人が問いただすと、老人は、

「なるほど確かに雀は見事に描けている。しかし、このままでは雀が体を休めるところがない。」「名人という者は手抜かりがあってはならない。」

 老人は、主人から筆を借りて籠を描き、「これで、雀の休むところができた。」と主人に言います。

 この籠を観た城主の大久保加賀守はさらに二千両の値を付けます。
 
 ある日旅籠を訪れた男に、店の主人は感謝の言葉をかけつつ、老人の話をします。男はその話を聞いて、未熟な自分を恥じ、その老人は私の父親だとうち明けます。絵に向かって、無沙汰を詫びます。店の主人は、「こんなに立派な絵を描く息子を持って、お父様もさぞかしご満足でしょう」と男に言います。すると男は、

「いやいや、自分は親不孝だ、親を籠描きにした。」



2007年1月10日(水)23:15 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

寿司

 1週間も外国にいると、どうしてもお醤油味が恋しくなります。

 そいでもって、今日は寿司屋に行きました。先日の落語についていろいろ話しました。

 落語を聞き始めた知り合いに、古今亭志ん生の「大工調べ」を聞かせました。比べるのも何ですが、人によってずいぶん違うという事が解ったそうです。

 一人で全てやっているのですから当たり前と言えば、当たり前です。やはり落語は演じる人の人間が出るんだという結論になりました。

 寿司はひらめが良かった。紅葉おろしで食べないと・・・

 ひらめは紅葉おろし、さよりはショウガで、アワビは蒸しアワビで、生は邪道と信じています。
 こはだは煮きりを塗って食べました。赤身は付けで・・・

 この寿司屋は空いていて、今日は一人だったので、全て上記のようにして貰いました。

 エビは卵のそぼろ入りが良いのですが、それは無理でしたから(笑)



2006年10月6日(金)22:45 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

今日は落語会でした。

今日の演目は、「置き泥」 「大工調べ」の二題でした。

どちらも貧乏なお話です。

「大工調べ」

 大工が家賃を払わないので、大家さんに商売道具の道具箱を、家賃代わりに差し押さえられてしまっています。
仕事があるからと来た棟梁が、道具がないのでは仕事が出来ないから、払ってやることにします。

 ためた家賃が、1両2分と800文、あいにく1両2分しか持ち合わせがないけど、たった800文だから後でお願いします。このたった8000文という言い方に大家がへそを曲げ、耳をそろえて払うまで道具箱を返さないと、大喧嘩になります。

 最後は裁判沙汰になります。大岡様の裁きは、大工の手間賃20日で、銀200匁の支払いを大家に命じます。
 
 落ちは、大岡様が大屋をやり込めた後で、「さすが大工は棟梁(細工は流々)、調べ(仕上げ)はごろうじろ」


 実はこの話には少し変なところがあります。当時の店賃と言えば、独り者が住んでる長屋など時代にもよりますが、一月300文からせいぜい5~600文くらいでした。とても安かったのです。

 1両と言えば時代にもよりますが、6000文です。1両2分ですと9000文です。4ヶ月払っていないで1両2分とはとてつもない高級な長屋に住んでいたことになします。

 「棒手振り」と呼ばれる、品物を担いで売る行商でも、日に4~500文の稼ぎにはなりました。

 一月1両あれば、親子三人楽に暮らせました。ですから「棒手振り」でも、一月に10日から15日も働けば大丈夫だったのです。

 大岡様の裁きでは、大工の手間賃は20日で、銀200匁です。銀60匁が1両です。銀200匁は20000文です。金に換算すると3両1分1朱位です。

 江戸は火事が多く、大工の仕事は幾らでもありました。大工は日当が良くて、一日おおよそ1000文~1500文(1分)です。つまり腕の良い大工なら4日で1両稼ぐことが出来ました。一月に4日働けば一応生活は出来ました。

 とにかく物価が安かったのです。「江戸っ子は宵越しの金を持たない」というのは、いつでも稼げる事もありました。

 家賃滞納は落語に良く出てくる話ですが、実際にはたった一日か二日の収入に値する金額でしたから、滞納はそれほど無かったと思われます。

 噺家さんと雑談の時、もちろん聞きました。(笑)よそでも突っ込まれたことがあるそうです。1両2分と800文は言葉の調子だそうです。 席亭が私のことを、うるさい客なんだからと笑っていました。

 はっきりと覚えてませんが、柳家小さん系は1両2分と800文ですが、1両と800文で演じられる事の方が多いかも?。

 落語ですからあまり詳細にするのは意味がありませんが、大岡 忠相が町奉行ですから、実際には時代は確定できます。

 1717年(享保2年)2月3日、普請奉行から江戸南町奉行に異動。越前守に転任。 1736年(元文元年)8月12日、南町奉行から寺社奉行に異動。つまりこの20年間の出来事です。
 



2006年9月26日(火)23:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

二番煎じについて

 専門家に聞いたら、やはり「二番煎じ」は難しい話で、結構な大ネタだそうです。やはり当場人物も多く、謡、新内など、とても大変なのだそうです。ですからそんなには演じられないのだそうです。

 志ん朝は声も良くて、得意の話の一つだったそうです。

 話芸としては、完璧と言えます。完璧すぎます。あまりにも完成されていて、文楽の話のようです。しかし晩年の文楽は、自然な完璧さがありました。惜しむらくは、余裕というか、思いついたように話し始めるような、自然さが無いとも言えます。客に練習してあるとか、上手と思わせるのでは、親父にはマダマダだと思っていたのかもしれません。

 もう少し長生きすれば、親父のように破天荒のようで、実は・・・みたいな芸風になっていったのかもしれません。

 とにかく早すぎました。この辺は倒れてからも酒を飲み続け、長生きした親父を見習って欲しかったですね~

 



2006年7月3日(月)23:46 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

古今亭志ん朝 の 「二番煎じ」

「二番煎じ」を聞きました。

 とにかく調子が早く、登場人物が多いのに見事に演じ分けています。
 以前噺家さんと話したとき、テレビカメラのように、身体の向きを変えたとたんに、その人になりきって、演じるようにしていると言っておられました。人数が多く、大店、職人、浪人風の人、最後には役人と、身分も全く違う人を次々に演じる様は、技術的にも素晴らしい物がありました。

おおよその話は、 
 火事は江戸の華で、特に真冬は大火事が耐えないので、町内で自身番を置き、商家のだんな衆などが交代で火の番として、夜巡回することになった。

 寒いので手を抜きたくても、定町廻り同心の目が光っているので、しかたがない。人数も多いので、月番のだんなの発案で、二組に分かれ、交代で、一組は夜回り、一組は番小屋で待機していることに決めた。

 最初の組が見回りに出ると、凍るような寒さ。みな手を出せ無いくらいの寒さ。宗助は提灯を股ぐらにはさんで歩くし、拍子木のだんなは両手を袂へ入れたまま打つので、全く音がしない。
 
 鳴子係のだんなは前掛けに紐をぶら下げて、歩くたびに膝で蹴る横着ぶりだし、金棒持ちの辰つぁんに至っては、握ると冷たいから、紐を持ってずるずる引きずっている。

 誰かが「火の用心」と大声で呼ばわらなくてはならないが、拍子木のだんなにやらせると低音で「ひィのよォじん」と、謡の調子になってしまうし、鳴子のだんなだと「チチチンツン、ひのよおおじいん、よっ」と新内。

 辰つぁんは辰つぁんで、若いころ勘当されて吉原の火廻りをしたことを思い出し、
「ひのよおおじん、さっしゃりましょおお」と廓の金棒引き。

 この三人の、謡い、新内、郭の金棒引きが素晴らしく、盛んな拍手です。声も良く、芸の深さを感じさせます。
 
 一苦労して戻ってくると、やっと火にありつける。

 一人が月番に、酒を持ってきたからみなさんで、と申し出た。
「ああたッ、ここをどこだと思ってるんです。自身番ですよ。役人に知れたら大変です」そう言いながら、
「全くこんな物を持ってきて、そこの土瓶のお茶を捨てて、水で洗って、これを入れなさい!」

「いったいどうするんです?」
 
「酒だから悪いので、煎じ薬のつもりならかまわないです。実は私も持ってきた。」
 などと出鱈目になってきます。土瓶の茶を捨てて「薬」と言って、酒盛りが始まります。

 そうなると肴が欲しいが、もう一人が、猪の肉を持ってきたという。それも、土鍋を背中に背負ってくるソツのなさ。番屋の扉につっかい棒をさせ、一同、先程の寒さなどどこへやら、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

「ここを開けろッ。番の者はおらんかッ」

慌てて土瓶と鍋を隠したが、全員酔いも醒めてビクビク。

「あー、今わしが『番』と申したら『しっ』と申したな。あれは何だ」

「へえ、寒いから、シ(火)をおこそうとしたんで」
「土瓶のようなものを隠したな」
「風邪よけに煎じ薬をひとつ」

 役人は落ち着き払って、
「さようか。ならば、わしにも煎じ薬を一杯のませろ」

 しかたなく、そうっと茶碗を差し出すとぐいっとのみ、
「このような物を飲んでおったのか!」と厳しい口調に、一同震え上がる。
 そこで「ああ、よしよし。これはよい煎じ薬だ。」
 一同一安心!
この所を、一瞬厳しそうにしてから、あくまで建前を通して、お互い薬で通そうとする役人を少し強調して演じているところは、ややくどいかもしれませんが、良い演出と言えます。役人の言葉使いも、巧みでした。

「ところで、さっき鍋のようなものを」

「へえ、口直しに」
「ならば、その口直しを出せ、表を締めて、つっかい棒をしろ!」役人も同じようなことを言い出します

もう一杯もう一杯と、酒も肉もドンドン食べられてしまいます。
「これじゃあ、みんな飲まれちゃうよ。」
「もうありませんと、断ろうよ。」

「ええ、まことにすみませんが、煎じ薬はもうございません」

したたかな役人
「ないとあらばしかたがない。拙者一回りまわってくる。二番を煎じておけ」



2006年6月26日(月)00:55 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

Mp3プレイヤー到着

 ちょうど良い具合に、Mp3プレイヤーが到着!

 古今亭志ん朝のCD15枚分を、インストールしました。さすがにこれだけあると時間がかかりました。

 2GBの威力、楽々入りました。容量が倍増したのは、とても嬉しい~~~!!ルンルン



2006年6月24日(土)23:33 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

「古今亭志ん朝」のCD

 「古今亭志ん朝」のCDを購入しました。

  「明 烏」、「船 徳」、「居残り佐平次」、「宿屋の富」、「文七元結」、「芝 浜」など大ねたが盛りだくさんです。

 「志ん朝」の得意というか、なんと言っても似合うのが若旦那の出る話です。品があって、実に様になっています。
初めに 「明 烏」、「船 徳」が来ているのも頷けます。

 いくつかの話は、今まで聞いたことがありますし、実際に寄席で聞いたものもあります。

 CD買うくらいでっすから、内容はもちろん満足! 満足!


 録音状態も良好でした。
 



2006年6月23日(金)21:26 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

「志ん朝」 の ちょっと良い話

 落語が終わって、噺家さんを囲んでの雑談の中で、素晴らしい話を聞きました。

 「古今亭志ん朝」の話です。
 あるプロダクションが、歌舞伎座での独演会を頼みに来たそうです。

 3日間で、1500万円という提示額だったそうです。どうしてそんなにギャラが出せるのかと聞くと、一人あたりの入場料が幾ら幾らで、会場費がどれだけで・・・だったそうです。「私はチケットは売れないよ!」というと、いいえこちらで簡単に裁けます。師匠はただ話しさえしてくだされば良いという。「それにしても・・」と言うと、大丈夫です、XX師匠の時も大丈夫だったのですから、ご心配なくという。

 それを聞いて、XX師匠よりは人気も実力も遙かに上なのですし、その頃師匠は家を新築したばかりで、お金はのどから手が出るほど欲しかったに違いないのです。

 なのに「私の芸はそんなところで話せるほどの物ではないので・・」と、断られたそうです。

 これは「志ん朝」師匠本人から聞いた話だそうです。

 きっと自分の芸がまだまだ未熟だと、思っていたのでしょう。それにそんなお金での仕事を受けると、自分の芸が乱れると思ったのでしょう。

 「志ん朝」師匠は、気に入れば安い出演料でも小さな落語会に出てくれたそうです。一度この会にも呼ぼうと言っていたのですが・・・
 
 CDを出したときも、まだまだそれほどの芸ではないと思っておりますが・・などのコメントがありました。

 自分で満足と思えば、そこで成長は止まります。最後まで落語に対して真摯な方であったようです。
 
 若い頃はとてもうまかった噺家が、テレビに出すぎで、まともな落語が出来ないのは仕方ないのかもしれません。良いとか悪いとかではありません。今更稲荷町の師匠のように、長屋に住めと言うのではありませんが、落語だけはまともに話せる人も残って行って欲しいと思っています。

 凄い家に住んでも良い、ピストル買っても良い・・・これはいけないか(笑)
 とにかく早すぎた「志ん朝」でした。



2006年5月25日(木)15:59 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

落語会

 今日の演題は、「紀州」と「花筏」でした。雨なのに、お客の入りも30人くらいでちょうど良い感じでした。

 「紀州」(きしゅう)

 七代将軍が短命で、跡継ぎがいないので御三家の中から次の将軍を選ぶことになりました。本命である尾張公と、対抗馬である紀州公のどちらかと言うことになりました。

 八代将軍を決める朝のこと。屋敷を出て鍛冶屋の前を通りかかると、「トンテンカン、トンテンカン」という音がしています。
尾州公には鍛冶屋の打つ槌の音が、「天下とる、天下とる。」と聞えました。縁起が良いと喜んでいく。

 しかし、うっかり一度遠慮し辞退を口にしたため、将軍職を紀州公にとられてしまいます。がっかりして城を出て来たが、鍛冶屋の槌の音はやはり「天下とる。」聞える。

 「紀州は城では将軍を受けあったが、きっと尾州公よろしく頼むと、使者をもって頼みに来るであろう」と、鍛冶の店の音が、相変わらず「天下とる、天下とる。」と聞こえます。

 その時鍛冶屋の親方が、まっ赤に焼けた鉄を水にズブリと差し込んだ。
        「きしゅうー!」

 とまあ、たわいない話です。とても短いので、枕にいろいろな話をして、軽い一席でした。こういった話は調子が大事で、なかなか見事な出来栄えでした。


 「花筏(はないかだ)」

 この話もそれほど長い話ではないので、当時の相撲取りの話などを枕にしていました。

 寛政の3人の人気力士である、谷風、小野川、雷電の紹介と、轍に入って動けなくなった、米俵を手助けした三人力士の人となりを表す逸話でした。

 銚子で勧進相撲を請け負った親方ですが、人気力士の大関「花筏」が病気となり、連れて行けなくなりました。なんと言っても看板ですから、大弱りです。一計を案じ、「花筏」にそっくりな提灯屋に頼み込んで、替え玉とすることにしました。

 相撲部屋の親方にうまく丸め込まれて、提灯屋が病に倒れた大関「花筏」の代わりに、酒と日に二分の手当てを条件に地方巡業の相撲に行きました。大変なお金です。

 江戸から花筏が来たというので大変な人気。しかし、提灯屋は花筏と似ているだけで、相撲はまるっきり素人。花筏のふりをして、毎日酒を飲んで、土俵の下で相撲を見ているだけでした。

 土地の千鳥ヶ浜という素人が、本職を投げ飛ばし勝ち続けて、いよいよ千秋楽を迎えました。本職が負けているのだから、どうしても相撲部屋のスターである「花筏」が出ないと格好が付かないことになってきました。

 勧進元は、ぜひ「花筏」と「千鳥ヶ浜」を結びの一番で相撲を取らせて欲しいと頼み込む。病気だと言って断ろうとするが、毎日大酒飲んでるようで、病気には見えないなどと言われ、断りきれない親方は承知してしまいます。

 提灯屋は、相撲を取らないで良いという約束だったので、これに驚き逃げようとしますが、親方が「しりもちをつくだけでいい。土地のものを勝たせてやり、相手に花を持たせてやれば、病気なんだし、丸く収まる。お前の体も無事だ。」と説得されて土俵に上がる。

 一方、千鳥ヶ浜の父親は心配して、
「相手は大関だ。若い衆を負かした敵討ちだ。懲らしめのために手ひどく投げられるぞ。良くて片端(かたわ)、どうかすると投げ殺されるぞ!土俵に上がるなら勘当だ。」と意見をし、土俵に上がらない約束をする。

 当日、相撲が好きな千鳥ケ浜は、観にだけ行きますが、その場の雰囲気で父親との約束を破って土俵に上がる。

 ところが、ビビッテいる提灯屋が土俵の上で念仏をとなえているのでびっくり。
「おれを投げ殺すつもりだ。」と、怖くなり自分も念仏を唱える。両方で念仏を唱えるので驚く行司。

 立ち上がった提灯屋は、死にもの狂いで張り手をやった。千鳥ヶ浜は不意を食らって引っくり返る。提灯屋は、しりもちつこうとして、相手を見ると先に倒れている。

 これを見ていた見物人が、さすが本物の相撲取り「花筏は張るのが上手い。」とやんやの喝采。

 はるのがうまい。うまいわけだ。提灯屋です。

 親方の言葉使いを、大阪弁で演じられました。
後から聞いたら、習った話では東京弁でしたが、「円生」さんのテープでは大阪弁だったので、どっしりとした感じを出すために、あえて大阪弁で演じたそうです。

 テンポの良い話ですが、親方のどっしりとした話しぶりが、調子を変えていてとてもいい話でした。

 ちょうど私の隣の席の方が、本物の提灯屋でした。「当時でも結構職人は良い給金取ってたんですね!」と聞いたら、元々提灯は高い物だそうです。でも今は需要がないから、儲からないと言っていました。

「話を聞いていて、提灯屋、提灯屋と言われて落ち着かなかったよ。」とみんなを笑わせました。その後提灯の作り方などの話も出ました。



2006年5月23日(火)23:02 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

三遊亭円朝

 昨夜落語が終わってから、少人数で噺家さんを囲んで一杯やりながらいろんな話をしました。
 最近のちょっとした落語ブームの話題や、襲名の話などなどでした。

 「芝浜」は三遊亭円朝1839~1900 が即席三題話の「酔っぱらい」「芝浜」「革財布」で作ったものです。もう一つの三題話の傑作として、「小諸山の護符」「卵酒」「熊の膏薬」から作られた、「鰍沢(かじかざわ)」があります。

 そんな話から円朝について聞いたのですが、円朝はいろんな地方の民話や、中国の故事なども研究して、話を作っていたそうです。有名な「文七元結」などは中国に似たような話があるそうです。
 そうですね何も無いところから、あれだけの話をなかなか作れるものではありません。その意味では三題話は、全くの創作だから凄いと言えますね~~!

 円朝は幕末から明治にかけ、江戸、東京で活躍した噺家で、話芸、創作も出来て、人情噺や怪談噺で名人芸を発揮したそうです。小噺程度の落とし噺を質の高い話芸に向上させ、落語の神様といわれています。

 代表作としては、怪談噺の「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」「怪談牡丹灯籠」をはじめ、「文七元結」「鰍沢」「黄金餅」「死神」「心眼」など、素晴らしい噺は殆どが円朝作といえるほどです。



2006年2月22日(水)23:00 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

落語会

今日は噺家も二人でした。
演目は
 「子褒め」と「芝浜」でした。
あいにく仕事で遅れて、「芝浜」だけ聴きました。
なかなか良い出来で、好評でした。うるさい、いわゆる大向こうの人たちは、こういった人情噺は、滞りなくやれれば、上手に聴こえる演目だとも言っていました。まったくね~素直じゃないんだから(笑)
 私はとても上手いと思いました。どこかの襲名披露した人よりは、はるかに上と思いました。(これも皮肉か?)

芝浜
 勝五郎という魚屋の話です。彼が魚河岸で選んでくる魚は新鮮で評判良かったのですが、彼は、酒が好きで怠け者でした。そんな彼が、奥さんにうるさく言われ、魚河岸に朝早く行って、財布を拾います。中には二分銀で42両もの大金が入っていました。家に飛んで帰って、奥さんに報告し、ほっとしたのとお金があるという安心感から、お酒を飲んで寝てしまいます。
 
 すぐに起こされて、奥さんが「働きに行け」と言います。なにいってんだい、42両のお金を拾ったじゃないか。あれがあればしばらく寝て暮らせると男が言うと、奥さんはあきれた顔をして、
「寝ぼけたことを言ってんじゃないよ。情けないねぇ。いくら貧乏だからって、そんな夢を見るなんて。お前さん、しっかりしとくれよ。」 などと言われて、男は心を入れ替え、大好きな酒も断ち、仕事に精を出すようになります。3年も経つと、小さいながらも表通りに店を構えるようになり、若い者の2、3人も使うまでになります。
 その3年目の大晦日。奥さんが、改まった顔をして古い財布を男の前に差し出します。
 
  「お前さん、この財布に見覚えがあるでしょう。中には42両入っています。3年前、あんたが芝の浜で拾ってきたときには、弱ったことになったなぁ、あんたのことだから、こんなにお金があったら、明日から働かないだろうなと思っていたら、あんたがお酒を飲んで寝てくれたので、大家さんに相談して、お奉行所にお金を届けて、お前さんには夢だと押し付けたら、好きなお酒もやめて一生懸命働いてくれるようになって。このお金もずいぶん前に落とし主がいないからといって、奉行所から戻ってきたんだけど、せっかくお前さんが真面目に働くようになったのに、こんなものを見せて、またお酒でも飲まれたらと、心を鬼にして今日まで黙っていました。幸い、お店も順調で、もうお前さんがお酒を飲んで少しぐらい怠けても、お得意さんに迷惑をかけることもないだろうし、そう思ってこのお金を見せて、今まであんたに嘘をついていたことをお詫びして……。腹が立つだろうねぇ。今まで連れ添う女房に嘘をつかれて……。今日は、あたしは覚悟を決めてますから、あんたが気にすむように、殴るなりなんなりしてください」
 
 十両盗めば首が飛ぶ時代でした。もし拾得物横領ともなれば、大変な罪だったのです。
 勝五郎は、妻に感謝します。気分直しにと、妻は夫にお酒を差し出します。3年ぶりのお酒。男は嬉しそうに杯を口元まで運びますが、
  「やめとこう。また夢になるといけない」

 元々は三遊亭円朝が即席三題話の「酔っぱらい」「芝浜」「革財布」で作ったものです。所がこの話には重大なミスがあります。

 本橋の魚河岸は、徳川家康が攝津の国西成郡佃、大和田両村の漁夫30名余を佃島に住まわせ、幕府に魚を供給させました。これが日本橋魚河岸の始まりです。

 この「芝浜」は日本橋の河岸より古く「雑魚場」(ざこば)と呼ばれ、江戸前(東京湾)の魚を主に扱い、獲れたばかりの小魚を扱っていました。ウナギ、アナゴ、シャコ、アジ、海老、蛤、アサリ等多くの魚貝類が商われました。江戸っ子は新鮮な江戸前ものを「芝肴」(しばさかな)として珍重しました。

 しかしこの「雑魚場」は、昼に水揚げされた小魚をその日の夕方から始まる河岸で取引され、「夕河岸」とも呼ばれていました。日本橋の河岸の様に早朝からは商われませんでした。
 ですから即席話で創られたときの河岸は早朝という誤解がありました。勝五郎が朝早く行けば河岸は開いては居ませんでした。
  
 1609年スペイン人のドン・ロドリゴ書いた「日本見聞録」に、この河岸の話が出ています。現在のJR田町駅前からそう遠くない鹿島神社の境内に「芝浜噺子の碑」があります。その先の芝浦公園が、この話の魚河岸でした。



2006年2月21日(火)23:27 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

S 氏の話

 泥酔した S さんは 言いた放題でした。酔っていてもなかなか鋭いことを言います。戦後からず~と寄席に通っていたから落語にはうるさいのです。

 落語の話になって 、「ら・り・る・れ・ろが言えない林家正蔵は噺家失格」とか言い出して、これは皆に受けていました。

 いろいろ批判もありましょうが、林家正蔵はまだ名前負けしているかなと言えますが、個人的には上手になったと思います。
 
 三平も声は良くなくて、滑舌も悪いほうでした。それでもとても面白い高座でした。お客が沸きすぎて、後に出る噺家が困る位でした。

 二代目は大変なんですからね!



2006年2月6日(月)23:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

志ん朝 の「船徳」

 先日寿司屋で食事していたら、若い方が落語の話をし始めました。最近はちょっとした落語ブームだそうです。
 寿司屋の店主はもと「落ち研」の出身で、やたらと落語に詳しい。年に何回か落語家を呼んで、落語会を開催しています。
以前一度は古今亭志ん朝を呼ぼうと、言っていたのですが、あまりにも早すぎました。「残念だったね~~」などと・・・

 ふと思い出して、以前鈴本で聞いた志ん朝の「船徳」の話をしました。若旦那の粋な姿や滑稽な様が実に似合っていて、一瞬にファンになったこと。落語は台本があるものの、一人で演じるものですから、どうしても演者の人間性が出てしまうこと。それに得意、不得意もあります。また似合う話、しっくり行かない話もあること。そんな話をしましたら、えらく納得されました。

 志ん朝演じた徳兵衛の話を、今でも昨日のことのように覚えています。
 お客:「あ~ッ、女将、居た居た。あんなとこから出て来たよ。お~いッ、何してんの?」
 徳さん:「どぉも相済みませんでした」
 お客:「相済みませんじゃないよ、船頭が客乗っけてどっか行ってちゃしょ~がねぇじゃねぇ~か、どこ行ってたんだよ?」

 徳さん:「どぉも相済みません。今ちょいと髭当たってたもんですから」
 お客:「色っぽい船頭だねぇ? まぁいいよ、この方がね。鼻水なんかズル、擦りながら行くより威勢がよくってさ。じゃ頼むよ」
 徳さん:「へ、もぉあっしが来りゃグ~とも言わせませんから、任しといちください、へぇ。だいじょ~ぶでごござんす。」

 徳さん:「んッ……、おッ……、よッ……、んッ……」
 お客:「んッ? 見栄を切ってるよ。ひとつ頼むよ」

特にこの見栄を切る所の志ん朝は、実に様になっていました。本当に志ん朝は早すぎました。

「船徳」あらすじ
 勘当された徳兵衛は船宿に居候。気紛れで、船頭になると云い出す。
 「竿は三年、櫓は三月」ってんだが、浅草観音の四万六千日の賑わいで、他の船頭は出払ってしまった。そこへ客。女将は、生憎船頭が出払ってまして、と断るが・・・。そこにいる船頭にと、客は舟に乗って待っているが船頭の徳が来ない。「何やってたんだ」。「へい。髭をあたってまして・・・」。竿を突っ張っても舟が出ない。出ない訳だ、もやいを結んだまま。やっと出たかと思ったら、竿を流してしまった。舟が先へ進まず、グルグル回るやらで・・・。
 徳は疲れて櫓を放り出してしまう。客はあきれ返って、舟から降りて水に入り、どうにか桟橋に上がる。徳に向かって、「大丈夫か~。俺達は行くよ~」。「待って下さ~い。船頭一人雇って下さ~い」



2006年1月14日(土)23:49 | トラックバック(0) | コメント(0) | 落語 | 管理

「世の中ついでに生きてたい」

「世の中ついでに生きてたい」 古今亭 志ん朝 (著) 出版社: 河出書房新社

山藤章二 金原亭馬生  池波正太郎 池田弥三郎 結城昌治 中村勘九郎 荻野アンナ
江国滋 中村江里子 林家こぶ平 との対談集です。志ん朝は座談の名手でもありました。落語の話、芸談議、父志ん生の思い出などが語られています。

芸人は普段はなかなか稽古のことや、苦労話や、話の工夫のことを話しませんが、対談の中で、上手く行かなかった話や、稽古の仕方、話の持って行き方、狙いなどが、ありのままに話されています。

名人と言われた父志ん生と比較されることや、芸に対する違いも、良いところ良くないところと、志ん朝の心の中そのままに語られています。

それにしても名人、上手と言うのは、やはり一分の才能と、九の努力のようです。志ん生も志ん朝も、やったとは言わないし、特に志ん生は練習したとは到底思わせない自然で破天荒のように聞こえるけど、実は非常に練習し、いつも研究していたようです。そういった面では志ん朝は落語をきちんとやりたい、いわゆる文楽のようになりたかったと言っています。

志ん生が悩んでいた志ん朝に言った言葉、
  「たかが噺家じゃないか、おまえ、だからきにすることないよ。落ちぶれたって、たかが噺家だよ。大きな会社の社長が乞食になるんじゃない。噺家なんだから、おまえ、出世したって噺家だし、落ちぶれたって噺家だ。」
素晴らしい言葉です。やっぱり親である志ん生には敵いませんね!心意気が違う!

志ん朝がテレビの仕事に行くので朝6時頃起きて、がたがたやってたら、倒れたあとの親父の志ん生が起きてきて、

  「何してんだい」ってえから、
  「これから仕事なんだよ」て言ったら、

  「おまえ、噺家がこんなに早く起きちゃだめだよ、新聞でも配達に行くのかと思ったよ」
  「いやそうじゃないんだよ。撮影があんだよ」ってったら、
  「つまんないことしてやんなあ」っていわれたの

志ん朝の中に親父に憧れるものと、嫌うものが同時に存在しています。この二つの話、志ん朝が志ん生になれないと言うか、なろうとしない人生観が現れていてとても良い話と思いました。
「世の中ついでに生きてたい」志ん朝の願望でもあります。このところがこの本の題になっています。



2005年10月5日(水)23:19 | トラックバック(1) | コメント(0) | 落語 | 管理


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